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GLORYCROSS†Christian日記

クリスチャン・教会日記

昨日の受難日祈祷会でのメッセージ

昨日の夜に執り行われました受難日祈祷会のメッセージは、新約聖書の

「マルコによる福音書14章43~52節」

を基に話されました。


マルコによる福音書では、ユダがいつイエス様の元を離れたのかは記されていませんが、ユダが再び現れた時は、イエス様を引き渡す目的で、祭司長や律法学者を引き連れて来ました。(43節)

ユダはすぐにイエス様を引き渡す合図として、挨拶の接吻をします。(44,45節)

一方、イエス様が逮捕されそうになった時に剣で大祭司の手下に抵抗しようとした者がいました。(47節)
(ヨハネによる福音書18章10,11節では、ペトロが剣を持っていたことになっています)

50節「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」と記されています。

また、51,52節には若者が亜麻布を捨てて逃げてしまったことが記されています。

“イエス様を見捨てて逃げてしまった”という記述は、
「マタイによる福音書」
「マルコによる福音書」
に記されています。

“若者が亜麻布を捨てて逃げた”という記述は、
「マルコによる福音書」
だけに記されています。

マルコによる福音書は、福音書全体の3分の1が受難週の出来事を記しています。

それは、マルコがイエス様のご受難を最も伝えたかったのではと思われます。

マルコ自身もイエス様を裏切った者としての惨めな存在という姿を記しています。

それとは対照的に、イエス様は1人で受難を受け入れ、従っていった姿を見ることが出来ます。

神の計画としての受難は、裏切り、孤独、敵意、侮辱に晒され、1人で受難という道を進んで行きます。

他の福音書記者は、
“マタイは徴税人の召命の出来事として”
“ルカは福音書と使徒言行録の「わたしたち」という表現をもって”
“ヨハネは、イエス様の十字架を見上げて、母マリアを託された弟子として”
それぞれ福音書の中で自分自身のことを表現しています。

受難に関わらないように必死に逃げる者という自分自身の姿を記すことが、マルコが福音書を記した意味を表していると思われます。

復活したイエス様を知った時に、福音はマルコを弱い者から強い者へ、福音を伝える者として、最初の福音書を記す者としたことを伝えたかったのではと思われます。
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  1. 2018/03/31(土) 13:39:03|
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